かつて沖縄で行われた『洗骨』という文化 映画が語りかける弔うということとは

先日、『洗骨』という映画を観ました。
沖縄本島の西に位置する粟国島などでは今も残っているとされる風習の一つだそうです。
メガホンをとったのは、照屋年之監督=なんとガレッジセールの”ゴリさん”です。

洗骨とはどういったものか?

この映画で行われる『洗骨』は、舞台となる粟国島の西側に位置する『あの世』に風葬された死者は、肉がなくなり、骨だけになった頃に掘り起こされるのだそうです。その後、家族や縁の深い人の手で骨をきれいに洗ってもらうことで、晴れてあの世に旅立てるというものだそう。映画の中では、この『洗骨』という風習によってバラバラになっていた家族が絆をもう一度取り戻していきます。

今この映画が私たちに訴えかけるもの

戦前では、沖縄本島でも行われていたというこの『洗骨』という風習、本土でも土葬だったこの時代、似た風習が各地にあったそうです。先祖を敬うということは、今よりももっと心の深い部分に存在していたし、人は必ず死んでしまうということがお墓参りや法事を通して私たちの中に染み付いていたんだと思います。

死ぬということは迷惑だろうか?

『人に迷惑をかけるな』『自己責任』なんて言葉が踊る現代社会の風潮の中、『死ぬこと=人に迷惑をかけること』ということになってきてはいないだろうか?と思うことがあります。
映画の中でも描かれますが、私も白骨化した遺体を洗うと思ったら気は進まないだろうと思います。しかしお世話になった人が、これをしなければ極楽にいけないというのであれば話は別です。

人に迷惑をかけることに臆病になり過ぎていないか?

映画で描かれる家族も多くの問題を抱えています。(ネタバレにならないように詳しくは書かない)

私たちだってそうだと思います。迷惑をかけるから、相談できないと思うこともあるでしょう。お願いするには心苦しいこともあるでしょう。しかし、『だからお互い支え合うんだ』ということをこの映画は示しているのだと感じました。

母の洗骨があるからしぶしぶ集まってくる家族は、この風習がなかったらきっともう会う機会はなかったかもしれません。

白骨化した人の骨を洗うということは想像しただけで大変そうだから逃げたいと思う。しかしそれゆえに家族が、不器用に時にぶつかりながらお互いの理解を深めて、家族の形を取り戻していけるのだと感じました。家族だからできるんですね。

母の『洗骨』という風習を通して、もう一度死んでしまった母の愛を再認識します。そして洗う本人たちもまた母を愛していたことを実感する。家族の愛の形がこの『洗骨』という風習でした。

私たちは、生きているかぎり、いつでも話したい相手と話せるようになりました。数十年前にくらべて会いに行くことだって利便性だけでいえば容易になったはずです。しかし現実問題私たちは、仕事で遠くに住まなければならないですし、兄弟や家族で顔を合わせる機会はそれほど多くはありません。

葬儀・葬祭が完全になくなれば親戚や兄弟と顔を合わす機会も失われてしまします。すこし面倒で迷惑がられるかもしれない。しかし、それでもいいじゃない?って思わせてくれるそんな映画でした。