母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。ネタバレ若干あり

最近、“死”をテーマにした映画が多い。『洗骨』もそうだった。あの映画は死を重たいテーマにせず、復活と先祖の大切さ、さらに新しい命に繋がるテーマと位置付けていたと思う。

さて、本作はタイトルのように母親を亡くす話だ。ただ亡くすだけの話ではなく母親に対する息子の愛が強く、迫りくる死に徹底的に抗うというか、死をネガティブに捉えている側面も成否かどうかも説いている。

実際、若い頃は死に対して大きな恐怖があったと思う。誰しもそうだと思う。いつの頃から、死を恐怖に感じるようになったかを記憶を遡るとやはり人の死を見てからだ。私の場合は葬式になるだろう。そう、祖父母の葬式だろう。3、4歳の頃だと思う。それから死はとても怖い存在になったと思う。

[affi id=2]

さて、本作の息子は自身が中学生の時に白血病になり死の淵を彷徨う経験から、今度は母親に死が迫ってくる現実をなんとか自分のように乗り切って欲しいと願うところに恐怖が現れていると思う。

しかし、息子は母が亡くならないように御百度参りをしたり、健康食を作ったりと努力するが、当の母親には重荷になってくる。母親はすでに死を受け入れているのだ。それに対して息子は苛立ちを感じ母を責めたりする。気持ちはわかるが、あまりにも母親に対する執着心に気持ち悪く感じてしまうのだ。

結局、母親は死ぬのだが、この映画では死にゆく人の潔い人の心情とは裏腹に生に固執する人の欲の深さを垣間見ることができるのだ。どちらが正しいのかなんて答えられない。でも死に対してネガティブの捉えれば捉えるほど、生きることへの欲が深いような気がする。それは恐怖心の現れであろう。

人間は年をとるにつれて守るものも多くなる。妻子ができればまだまだ死ねないと思う。でも、それは独り善がりで、残された家族はなんとか生きていくものだ。死ぬことで貢献できるのだ。

この映画でもう一つきになるのはガンの告知だ。一昔前はガンの告知は家族に告げて了解を得たものだが、今は直接伝えているのが現状なのだろうか。ちなみに私の母は15年前にガンで亡くなったが、最後までガンと知らせなかった。昔の人間だからガン=死だから、父親が伝えるのをためらったのだ。今思うと母親はまだ生きたいと願いながら、昏睡状態になり死んだ。それは良かったのか悪かったのかわからない。出来るものなら死の準備する時間をあげたかった。この映画では母が死を迎えるまで約2年有している。抗がん剤治療等も行って家族全員で戦っている。その過程で多くのこと学んでいるのだ。この2年間が母親にとっての満開の季節ではないだろうか。今までずっと家族のために家事も子育ても、妻としても尽くし、支えてきた。最後くらい舞台の中心に立ちたいだろう。いや立たせてあげたい。たった2年の主役だ。それで十分幸せだろう。告知されて幸せな時間を作ることもあるのだ。

さて、映画のタイトル『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』は息子であるならわかる気がする。昔、勝新太郎という役者がいた。彼は母親が亡くなって納骨する時、記者の眼前で母親の骨を骨つぼから取り出してボリボリと食べたのを思い出す。涙を流しながら食べる姿のなぜかこちらも目頭が熱くなったのだ。、だから決して気持ち悪いタイトルではないと思う。生物学的な本能では愛情の証として良くとる行動らしい。